連載エッセイほんの序の口43

左手の言語宇田智子

左手の言語

 アメリカからイタリアに移り住んで一週間。ゴミの捨て方もバスの乗り方もわからない日々のなか、ジュンパ・ラヒリはイタリア語で日記を書き始める。両親から伝えられたベンガル語でも、小説を書くのに使ってきた英語でもない第三の言語で、たどたどしく文字を連ねる。「まるで、うまく使えない左手、書いてはいけない手で書いているようだ」。
 このラヒリのエッセイから、子どもの頃の感覚がよみがえった。左利きだった私は利き手を直すように言われ、右手で文字を書かされていた。幼稚園で紙を配られて、みんな自分の名前を書く。私だけものすごく下手だ。本当はちゃんと書けるのに、と悲しかった。誰も見ていないときに鉛筆を左手に持ちかえると、のびのびと動いてほっとした。
 言葉のできない国で暮らすのは、利き手を使えない国に暮らすようなものだろうか。思うように書けない、動けないもどかしさ。ラヒリはそこに喜びや気楽さも感じたようだけれど、私はつらくて逃げてしまったから、いまだに右手も外国語も使えない。
 先日、台湾からのお客さんが店にやってきた。いろいろ探したいものがあるようで、英語やスマートフォンを駆使し、何度も聞き返しあいながらどうにかやりとりした。
 私の本の台湾版を買ってくれたあと、なにか言おうとしているので「サイン?」と聞くと笑ってうなずいた。表紙をめくって書き始めたら、左手の指をペンを持つかたちにして「私も」と言う。「あなたも、Left-handed?」「そう!」ますます笑顔になった。
「あなたの名前を書いてください」と紙とペンを渡すと、左手で漢字を書いてくれた。それを私の左手で書き写す。初めて共通語が見つかったような、通じあえたような気がした。一緒に写真を撮って別れた。

表紙のことば表紙の言葉

高尾山に登ってみた。大切に守られる修験の山。簡単に行ける頂上のほかに奥深い道がある。頂上から東京や横浜、千葉の海のほうまで見渡せて驚く。逆の静かな方向に下りたとても静かなところに、去年殺人が起きた施設があるとネットで読んだ。
(表紙画 タムラフキコ)

新刊エッセイ

  • ジャズ・アンバサダーズ―「アメリカ」の音楽外交史

    ジャズ=アメリカの等式を疑え―「アメリカの音楽」学断章    

    齋藤嘉臣
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    5月12日

    アイゼンハワー政権以降、国務省はアメリカの文化的魅力を発信すべく、最高のミュージシャンを「ジャズ大使」として世界各地に派遣した。二十世紀後半の国際政治を音楽から照射した鮮烈な一冊。

  • 絵本 江戸のまち

    アメリカンポップと江戸文化       

    太田大輔
    絵本 江戸のまち
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    5月18日

    江戸の町の風景と、そこに暮らす人々のようすを、綿密な絵で紹介する、江戸絵本の決定版。
    江戸に関心のある大人読者の期待にも応える内容。「さがしもの」絵本としても楽しめます。

  • 人はどのように鉄を作ってきたか 

    凡人の発想法          

    永田和宏
    人はどのように鉄を作ってきたか 
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    5月17日

    4000年前発明された鉄ほど人類の社会と文明に影響を与えた物質はない。温度計もない時代に、どのように鉄を作ったのだろうか? 
    最古から現代、さらに日本固有の「たたら製鉄」も紹介しながら、鉄作りの秘密に迫る。

  • フォマルハウトの三つの燭台

    タイトルの罠          

    神林長平
    フォマルハウトの三つの燭台
    本を購入本を購入
    5月31日

    人工人格家電の自殺疑惑、非実在キャラクターを殺したと主張する被告人、雇用を迫る対人支援用ロボット。起こりえない事件を解決するため、男たちは燭台に火を灯す。それは「真実を映し出す」と語り継がれる、フォマルハウトの三つの燭台。

  • 岡倉天心「茶の本」をよむ

    茶の古典を後ろからよむ―西洋に挑んだ岡倉天心の文明論     

    田中仙堂
    岡倉天心「茶の本」をよむ
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    5月11日

    東洋の伝統的精神文化を説く文明論として、『東洋の理想』『日本の覚醒』とならぶ天心の代表作。
    難解といわれる『茶の本』を、現代の茶道の実践者であり、芸術社会学者として大学の教壇にも立つ著者が、わかりやすく読み解いていく。

  • 東芝解体 電機メーカーが消える日

    電機メーカーは全滅するのか?

    大西康之
    東芝解体 電機メーカーが消える日
    本を購入本を購入
    5月17日

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好評連載

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    東北の桜、常磐の桜
  • その結婚、続けますか?2下重暁子        

    結婚しても独身!?
  • 愉快な認知症1  奥野修司  

    元気な当事者の「生活と意見」      
  • 「母親神話」の国、日本18竹信三恵子

    少女CM動画炎上の陰で
  • 新日本野球紀行145二宮清純

    沖縄野球の草分けとして―安仁屋宗八「酒とインコース」①
  • 社会性の起原42大澤真幸

    約束と愛
  • 「戦後保守」二つの源流2田中秀征

    大日本主義を捨てた保守本流

「本」から生まれた書籍

最新号もくじ

[連載名]タイトル 著者名
[ほんの序の口]42 左手の言語 宇田智子
〈巻頭特集〉 5万部突破! 『日本列島100万年史』が読まれる理由 ブラタモリと地学と100万年史 山崎晴雄
ブルーバックスと地理学 久保純子
〈新連載〉  心と時間1   ここまで生きてきた、というのは冗談 青山拓央
〈新連載〉  愉快な認知症1  元気な当事者の「生活と意見」 奥野修司
[スピンク日記]107 バンドと犬ぞりの共通点/作詞の実際 町田 康
アメリカンポップと江戸文化  太田大輔
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[鉄道ひとつばなし]257 東北の桜、常磐の桜 原 武史
〈新連載〉その結婚、続けますか?2 結婚しても独身!? 下重暁子
「母親神話」の国、日本18 少女CM動画炎上の陰で 竹信三恵子
タイトルの罠 神林長平
凡人の発想法  永田和宏
[新日本野球紀行]145 バンドと犬ぞりの共通点/作詞の実際 二宮清純
[社会性の起原]42 約束と愛 大澤真幸
「戦後保守」二つの源流2 大日本主義を捨てた保守本流 田中秀征
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